『大秦景教中国流行碑』の話 (1)


 ご存知の方も多いかと思いますが、高野山の奥之院には『大秦景教中国流行碑』という石碑があります。キリスト教と高野山との関係が取り上げられるときには、必ず「奥之院には『流行碑』がある」と、言われるほどです(実際、僕がそういっています)。

 この『流行碑』は、唐の時代、徳宗皇帝の建中二年(西暦781年)に建てられた石碑だそうですが、奥之院にあるのは、もちろんそのレプリカです。

 『流行碑』の碑文を書いたのは、景浄というペルシャ系の人で、タイトルの「大秦」というのはローマのこと、「景教」というのはネストリウス派のキリスト教のことです。この『流行碑』には、ローマから伝わったキリスト教が中国でどのように流布したのかが記されています。

 実際に碑文を読んでみますと、まず天地創造からキリストの誕生を述べて、それから中国への伝来について記されています。
 景教が中国(当時は唐の時代)に伝わったのは「貞観九祀に長安に至る」とあることから、太宗皇帝の貞観九年(西暦635年)のことのようです。ちなみに、この八年前の貞観元年(西暦627年)には、『西遊記』でお馴染みの玄奘三蔵が天竺を目指して旅に出ています。

 また、『流行碑』には、貞観十二年(西暦638年)の秋に皇帝の命令によって大秦寺というお寺の境内に教会が建立され、宣教の許可が下りた、と記されています。その後、景教は高宗、玄宗、粛宗、代宗、徳宗といった歴代皇帝の庇護の下、着実に教会の数を増やし、大いに流行していたことが『流行碑』の文面から伺えます。例えば、高宗の時代には「諸州に各々教会を置く」とあり、粛宗の時代には「霊武郡などの五郡にさらに教会を建てる」と記されています。

 ところで、この『流行碑』と、高野山の関係、実は単に『流行碑』が奥之院にある、というだけではないことをご存知でしょうか。そのことについては、また次の機会ということにしたいと思います。