『大秦景教中国流行碑』の話 (2)


 高野山の奥の院にそのレプリカがある『流行碑』が、ペルシャ系の景教僧である景浄が記したものである、ということは前回お話しました。そこで今回は、この景浄と高野山を開いた弘法大師との接点についてお話したいと思います。

 中国では、古くから仏教伝道のためにインド人僧がやってきていました。弘法大師が中国に渡った頃(8世紀から9世紀)、中国では密教が大流行していて、多くの密教経典がインドの言葉であるサンスクリット語から中国語に翻訳されていました。そのような翻訳僧の中に、般若三蔵という方がいます。般若三蔵は北インドの出身で、玄奘三蔵も学んだインド最大の仏教大学であるナーランダー寺院で勉強した後、南インドで密教を学び、唐の建中2年あるいは3年(781/782)に中国にやって来たといわれています。
 弘法大師は中国で、この般若三蔵からサンスクリットを学び、さらには日本に帰るとき般若三蔵の翻訳した経典をいくつか貰っています。その弘法大師が貰ったお経の中に『大乗理趣六波羅蜜経』というお経があるのですが、このお経こそ、般若三蔵が景浄と共に翻訳した経典なのです。弘法大師は日本に帰った後、この経典を自分の著作の中に引用したり真言宗の僧侶が学ぶべき教典や論書のリストに加えたりと、大事なお経として扱っています。
 しかしながら、どうして景浄が仏教の経典翻訳したのかはわかっておりません。景浄が仏教や語学に詳しかったわけではないことは、『貞元禄』という目録の中に「この時、般若三蔵は中国語にあまり慣れておらず、景浄はサンスクリットや仏教を良く知らなかった」と書かれていることからわかります。とすれば、これはあくまでも想像ですが、景浄と般若三蔵とは個人的に知り合いであったと考えられます。
 いずれにせよ『流行碑』は、単に高野山にあるというだけではなく、それを記した景浄と高野山を開いた空海との間にも、般若三蔵という人物をはさんで接点があったのです。

 皆さんも、高野山にいらしたときには、漢和辞典を片手にこの『流行碑』を読んでみてください。1200年前の中国で、キリスト教徒がどのような生活をしていたのかがわかりますよ。